天使のささやきが聞こえてきた帰り道
いつも通る道の途中に小さな小さなバーがある。
夜になると、静かな住宅街に、そこだけ明かりが灯って、
前を通ると、時折、70年代のソウルっぽい音楽がもれ聞こえてくる。
入ってみたことはないけれど、遠目にガラス戸の中を覗いてみると、
何やら物凄いアフロの髪型をした人たちの写真が壁に飾られているのが見える。
二、三日前の夜、くたびれて、とぼとぼと、そのバーの前まで歩いてくると、
スリーディグリーズのWhen Will I See You Againがかかっているのが聞こえてきた。
もう随分と前、25才の時、3か月の短期間だったけれど、ニューヨークに語学留学した。
ハーレムに近い157st駅を降りる、ジャマイカからの移民の人が多く住む地区で、
美容院をやっている黒人のおばさんのアパートにホームステイした。
50代半ばだった、そのおばさんは離婚して、子供とも離れて一人で暮らしていた。
毎朝起きると、おばさんは昔のソウルやモータウン専門のチャンネルに合わせてある
ラジオのスイッチを入れる。
その音で目が覚めてからも、しばらく僕はベッドの中で、リビングから大音量で
流れてくるラジオの曲に耳を傾けていた。
黒人のミュージシャンで誰が一番好きかと尋ねられたので、僕がプリンスと答えると、
おばさんは顔をしかめて、昔からオーティスレディングが一番好きだと言った。
オーティスは白人に殺されたと、苦々しそうに話す表情はちょっと怖かった。
ステレオがないのでもう聞けないと言っていたけれど、捨てずに取ってあった、
段ボール箱の中のLP盤のレコードの束の中には、オーティスレディングやら
ボブマーリーやらに混じってスリーディグリーズもあった。
When Will I See You Again,邦題は天使のささやき。
僕が彼女に会うことはもうないだろうけれど、元気にしているだろうか、
色々とルーズなところもあって、困ってしまうこともあったけれど、
とても人間臭い人だった。
美容院でお客さんと、今でもゲラゲラと大きな声で笑っているだろうか、
僕にはあまり良い人には思えなかった、あの彼氏とはどうなったのだろうか、
夕暮れ時になると、子供たちが集まってきて騒ぐ、あの通りは相変わらず、
今でもにぎやかだろうか。
今年はニューヨークに行きたいなと思った。
帰ったら、何かソウルのアルバムでも聞きながら、
冷蔵庫に残っていたワインを飲もう、そう思いながら、
天使のささやきが終わってしまわないうちに、夜の暗闇にぽつんと浮かぶ、
小さな小さなバーの明かりの前から、また歩き出した。